
ここは、神に愛されし宇気比町。
「おらっ!」
公園に清々しい声が響く。
「あ! おい、ちょっと!」
真っすぐ振り投げられた一球は、綺麗に打ち返された。そのボールが大きな弧を描いて、公園のフェンスを飛び越えていく。
少年二人はあたふたと慌てながら、ボールの行く末を追う。窓でも割れたら大惨事だ。
わざわざ追わなくとも結果は分かっていた。ボールがあの勢いで、フェンスを越えたということは...。
しかし。
「よっと」
銀色のシルエットが、二人の視線の先に現れた。
彼女は跳び上がり、自分の身長の倍くらいの高さを飛翔するボールを、素手でキャッチした。
驚異的な跳躍力と、度胸。突然現れたヒーローの姿に、野球をしていた少年は目を奪われる。
「ほーら、危ないぞ」
白い軍服に赤いサングラス。高い身長と高い頭身。それはまさしく、人間として完成された容。
少女は、キャッチしたボールをしっかりと握り込む。それに応えるようにして、二人の野球少年はバットとグローブを構える。
「それっ!」
彼女の手元から、ボールは一直線に放たれた。華奢な体から放たれたとは思えない、力強い剛速球。
しかし、少年の目はボールの軌道をしっかりと捉えていた。握りこんだバットを、ここぞと振る。
当たった。
「マジか!」
驚きの表情もある中、三人はボールの行く末を見る。
「なかなかやるね」
「あ、ボール」
ぱりん。
「......これは、三人で謝りに行こう」
* * *
窓を割ってしまった謝罪を少年二人と終えると、またあの公園に戻ってきた。
「お姉さん、肩強いね」
「そうかな」
「野球やってたの?」
「ぜーんぜん」
飄々とした拍子で彼女は、ベンチから立ち上がる。
「もう行っちゃうの?」
「仕事いかなきゃだから」
「お姉さん働いてるんだ」
「社会人だから働いてるよ、もちろん」
「何の仕事?」
「私の仕事は、劇団員」
それから少年たちに振り向くことなく、彼女は去っていった。
その姿は、少年たちの脳裏に永遠に刻まれることになる。忘れたくても忘れられない彼女の子供っぽい表情、虹のような長い髪、魔的な光を宿した瞳。
神に愛されたこの町で生きている、ある一人の、神に愛された者。
彼女の名前はアイン。小さな劇団、黄金劇場の団長である。
* * *
「彼女が劇団員を目指した理由」はひとまず置いておくとして、彼女の劇団員としての素質はこの上ないものだった。
学生時代に演劇を経験したことなど全く無かった。しかし彼女の佇まいには、圧倒的な美の顕現があった。
天授の髪はオーロラの如き流動である。すらっとした細い身形だけれど、自信と尊厳に満ち溢れた存在感を放っている。
彼女は生まれながらにして特別だった。彼女がその「特別」を嫌ったことは、特になかった。人から羨まれることの幸せも不幸せも知っていたけど、「それもまたひとつ」として受け入れられた。
だけどあるとき、はじめて彼女は特別ではなくなった。
それでようやく彼女は、特別ではないことの幸せと不幸せを知った。
「もうじきだね」
「うん」
黒色の、背の低い車に乗せられて、彼女はこの町にやってきた。
ある一人の男に拾われた。彼は「劇団員になりたい」という、彼女らの夢を叶えるためにアインを招いた。
アインは窓外を眺める。人目を気にしていないときの彼女は、雰囲気が変わって落ち着いている。窓の外には、何気ない日常が流れている。こんな風な景色は久しぶりだ。
「着いたよ」
男に声をかけられて、車から降りる。
アインたちは、新しく立ち上げる劇団の事務所にやってきた。
「ねえ」
「どうした、アイン団長」
男はからかうようにして呼び応えると、アインはむっとした。
「メンバー二人の劇団の団長って、なんだか寂しくない?」
「仲間はこれから増えていくさ。私たちがまずやるべきことと言えば」
「言えば?」
「事務所の掃除と、必要な物品を買い揃えておくことだ」
* * *
「もうお昼過ぎだな」
公園で少年たちと野球をしていたこともあり、自分が買い物の命を受けていたことをすっかり忘れていたアイン。腕時計を見ながら、町の商店街へと南下する。
劇団の事務所に置いておくものと言えばなんだろう。とりあえず台所とトイレの水回り、準備しておくものはありそうだ。
でも、劇団の事務所でわざわざ料理をするかなぁ...とも思う。まあ、買っておくに越したことはなさそうだ。たしか三階に物置があったはずだし、置き場には困らないだろう。
あとはちょっとしたインテリアなんかも置いておこう。せっかくだし、楽しい空間がいい。
「小物は適当に買っちゃおうかな」
適当に、と言い出したのが良くなかった。
とりわけ買い物が好きなわけではない彼女だが、気になったものはつい買ってしまうのが性。迷うくらいなら買ってしまえ、の精神である。
この買い物が経費で落ちるかどうかなど頭にはなく、ただ好奇心の向くままにお店を巡る。
「ん?」
そんな彼女の目に、一際輝いて留まるものがあった。
一本の傘だった。
なんの変哲もない、黒いだけの傘。値段も張らない、ただそれだけの傘だった。
それが売り場のアルミの傘立てに、なんとなく立て掛けられている。誰かを特別に待っているわけではなく、そこにいるだけの傘。
だからこそ、その傘は切り取られたように浮かび上がって見えた。燦然として、売り物という役割を持っている他の商品とは違う。この傘だけは、誰に買われるのも待っていない。
だから気に入った。
彼女は買い物かごに大量の小物を入れてレジに向かった。
と、そこで。
「すいません、この傘」
「はい」
「これ、非売品です」
「え!」
それはまあ、誰に買われるのも待っていないわけだ。
だけど、そのときのアインの表情があまりにも残念そうだったので。
「...でも、私の傘なので。あげます」
「ええ、店員さんの傘なら、私が貰っちゃうのは申し訳ないですよ~」
「いえいえ、古い傘ですので、もしよければどうぞ。普段は別に折りたたみの傘持ってるので。それに、傘があなたを選んだのかもしれませんし」
「そうなのかな...」
とはいえ、欲しいものが手に入るチャンスということに変わりは無かった。アインは店員に深々と頭を下げて、傘を受け取った。
レジを抜けようとしたとき、さっきの店員が声をかけた。
「あの!」
「はい?」
「どうか、大事に使ってあげてください」
「もちろんです。ありがとうございます」
笑顔を交わして、二人は別れた。
晴れの日に傘を持って歩くっていうのは、それだけでなかなか不思議な感覚だった。
今日の天気予報は通して晴れだし、わざわざ傘を持って出かける人は他にいないだろう。
でも、これも何かの特別だ。
特別は良いことでもあるし、悪いことでもある。特別でないことにも良いことはあるし、悪いこともある。
特別なときは特別な思いを、特別じゃないときは特別じゃない思いを受け取る。それが彼女の生き方である。
そうでもないと、晴れの日に傘を持って蘭々とスキップすることはない。
「次は何を買おうかな...掃除機とか必要かな」
次なる目的地は電気屋さんだ。また彼女はスキップで進み始めた。
* * *
山での出来事。
宇気比町は山に囲まれた町。町の端から山道に繋がって、山を登ることができる。この町の小さな子供たちにとって、初夏の太陽がうらうらと照り付ける山を登ることは、儚い楽しみであった。
「ほら、早くのぼってこいよ!」
「ちょっとまって!」
山道はそこまで舗装された道ではない。先人たちが長い時間をかけて、その足で均したものだ。
その道の傍らには、小さな石棒が立っている。
「なんだこれ?」
「ただの石だろ」
「きれいなかたち」
子供たちが続々と周りを取り囲む。それは鉛筆ほどの大きさしかない、本当に小さな棒である。しかしそれは偶然できたと考えるには、あまりにも綺麗な直方体をしていた。
「これ、持ってかえろうぜ」
「だめだよ。山にあるものは勝手に拾ってかえっちゃだめなんだ」
「なんで?」
「おかあさんが言ってた。山の“かみさま”が怒るからって」
「かみさま? なんだそれ」
ひときわ体格の大きな子が、石棒を引き抜く。意外と力が要った。
「だめだって!」
「うるせえ!」
一人が、これを持ち帰ろうといった。
一人が、自分が持ち帰ろうといった。
一人が、やっぱり返そうといった。
一人が、そんなことしないといった。
鐘の音が鳴り始める。
ここは、神に愛された町、宇気比町。
* * *
一方、アインは困っていた。
「傘なくした...」
電気屋さんに来るまでは、持っていたはずだ。
それが、いつの間にか失くしてしまっていた。
「店員さんに聞いてみようかな」
踵を返したとき、偶然それが目に入った。
黒色の傘を持つ男。
「あの、すいません」
「はい」
「その傘、私のじゃないですか?」
「いや、そんなことは」
男は悠々として答えた。
「いやでもほら、この把手の形とか」
「でも、これは私の傘です」
「あと、君は最初傘を持ってなかった」
「いやいや、どうしてそんなこと」
「私、人のこと見るの好きなんです。お店の中で何回かすれ違いましたよね、私たち。だから分かります。あなたがわざわざ上着を着て、別人を装っていたことも...疑うのであればその傘、私のものと同じであることを示してみましょうか」
「......」
「その傘、フレームの一本が曲がっているはずです。ずっと傘立てに置いてあったから、そこだけちょっと曲がってるんですよ。長い間放置されていたからでしょうね。さて、試してみますか? 私はオールインですよ」
するとたちまち、男は走り出した。
「逃げるんだ、私から」
一息置いてから、彼女も走り出す。
だが、勝負は一瞬だった。
アインは男に簡単に追いついたあと、男の方に手を置き、大きく飛び上がった。そして男の前に立ちふさがるようにして着地し、片手を差し出す。
「逃げられないよ。こう見えても私、体育祭のリレーの選手だったからね。帰宅部だったけど」
「......」
「それ、返して」
「...」
「私に」
「...」
「私、泥棒はキライだよ。それは私の傘だから。私が預かったの」
「そんなにほしいなら、これくらい...」
「ねえ、上着の内側にナイフ入ってるでしょ」
「......そんなわけ」
「いや、入ってる。今、手の動きが迷った。人に手を出そうとしているときの迷いだ。人を一撃で殺してしまうかもしれない恐れが混ざってるよ」
「......」
「やってみなよ。私は死なないよ」
瞬間、手は動いた。男は予想通り、上着の内側に手を潜り込ませ、まさぐり、ナイフを取り出した。半ば上着を引き裂くかのようにして取り出されたナイフは、アインの眼前を掠めた。
だが、表情は揺らがない。あの御伽の宝石のようだった星の瞳が、切っ先を虚ろに見つめる。
男はナイフを、彼女の胸元目掛けて突き刺した。
ナイフは刺さった。アインの胸に、確かに直撃した。
流血も確認できた。男の精神が高揚していく。自分の体温が暴走している。この刹那は永遠のように思えた。
人を殺した。目の前で「死なない」と豪語した彼女は、たしかに致死の傷を受けた。
だが、それが刹那であったことが決定的だった。
「Go Away」
男が瞬くと、いつの間にか片手を掴まれ、視界ががくんと落ちる。膝を折り曲げられ、力なく床に叩きつけられる。ナイフが蹴り落とされ、床に這いつくばる。
「ほらね。勝てない」
「な、なぜ!」
「勝ったと思っちゃったんだ、私にナイフを刺せたから。確かに、私にナイフは刺せてたね。だけど油断しちゃダメだよ、私を一回殺せたくらいじゃ」
彼女は男を拘束すらしない。もし仮に彼がナイフを拾ってもう一度立ち上がったとしても、彼に勝ち目はない。
彼女は、星の血族。人の身に在って人ではないもの。
この世界の運命によって支えられた、選ばれし人間である。
「時間の流れは強力だ。一次元的に動くからね...でも、それは一方的じゃない。少なくとも私にとっては」
「俺をどうする気だ、警察に突き出すのか」
「そんなこと、わざわざしないよ」
彼女は笑った。絵に描かれたら、それだけで価値がつく。人の精神に微睡めば、それはただちに偶像となる。もし異性の前に現れれば、たちまち心を撃ち抜かれる。
それが完成された彼女の笑顔。
彼女は笑顔のまま、言った。
「ひとりで行きなよ、それくらい」
数分後、男が交番に自首したそうだった。
交番に到着した頃には相当息を切らしていて、自首した理由について聞くと、
「あんなに恐ろしいもの、今まで見たことない」
との、ことだった。
* * *
「ねえ、やっぱり返してこようよ」
「いつまで言ってるんだよ、お前」
少年たちは帰路についていた。斜陽の差す住宅街には、数人の子供の影が延びる。
まだ少年たちは、口論を続けていた。
「だって、かみさまに怒られるのはいやだよ」
「おまえはお母さんに怒られるのがいやなだけだろ!」
「それも、そうかもしれないけど...」
一際体格の大きい子供が、相手を突き飛ばした。それから、手に持っていた石棒を投げつけて、
「じゃあ、おまえがひとりで返しにいけばいい」
そう言って、彼らは去っていった。石棒は少年の額にあたり、細く入った傷からは血が流れた。石棒の接触面にも、うっすらと赤い色がついていた。
少年は静かに立ち上がり、石棒を拾った。あの子供たちは少し前。
どうしてやろうかと思った。これを山に返してこようと思うのだ。
でもそれより先に、やってやりたいと思ってしまうことがある。
今凶器を手に持っているのは、僕だ。
「やめなよ」
帰路につく子供たちの前に立ちはだかる人影があった。それは、斜陽の逆光に照らされてもなお、銀色だった。
「今、その子に石投げたでしょ」
「誰だよ」
「誰って、劇団の団長だよ。でもそんなことはどうでもいいでしょ。謝りなよ、怪我してるよ」
「......」
「私、怒るよ」
それがその気でなかったとしても、彼女の言葉は本物のように思えた。
なぜだろう。なぜ彼女の言葉はこんなにも響くのか。
でも、子供たちは彼女の横を走って通り過ぎた。
「...逃げるんだ」
その言葉が聞こえたかどうかは分からない。だけど、子供たちは足を止めなかった。
その場に残ったのは、アインと少年だけ。
「...お姉さん、公園で会った」
「うん」
「劇団の人ってすごいんだね。どんなこと言っても、本当みたいに聞こえる」
「そんなことないよ。私が悔しいのは何より、あの子たちの足を止められなかったこと」
「......すごく残念そう」
「顔に出やすいタイプなんだよ、私は。それよりね、君は山に戻らないほうがいい」
「どうして?」
「ああ、もう来ちゃったか...」
鐘の音が聞こえる。
ここは、神に愛された町、宇気比町。
聖者の行進が始まる。
予報にはない雨が降り始める。
「あれ、雨......今日は晴れだって、おかあさんが」
「私の後ろにいて」
町の通りを、何かが闊歩している。きっとあの子たちは助からなかった。だから彼女は後悔していた。
こちらに向かってくる人影は、黒すぎて何かは見えない。
頭に笠を乗せて、杖を突きながらやってくる何か。
このどす黒い雨の中をゆったりと歩いてくる、居てはいけない何か。
遠く響く鐘の音と銃弾のような雨音は、会話を掻き消せるほどだった。
アインは叫んだ。
「いいか、私の後ろから離れるなよ!」
アインはふと足元を見やると、すぐに少年を抱きかかえ、塀を飛び上がって一軒家の屋根に着地した。
「お姉さん、運動神経すごいね」
「まあね、これでも高校の体力テストは学年でも男女総合トップ5だったんだよ。屋根の上から降りないで。水たまりが危ない」
彼女は自分の足元の水たまりが、自分の足を食い進め、水たまりの中に引きずりこもうとしているのを見た。彼女の能力がなければ、もっと早くに死んでいただろう。
「これって...」
「幻想種...ここまで来ると、もう呪いの一種だね。君が持ってる石の棒、多分道から引っこ抜いてきたでしょ」
「でも、抜いたのはぼくじゃないから...」
「まあ、結果として抜かれちゃったわけだ。君が山にそれを返してこようとしても、道の水たまりに足を取られてやられるだけだ」
「じゃあ、この石どうすれば...」
きっとあれは、旅人の霊だ。霊ではなく呪いというほうが近いというのは、さっき言った通りだ。
道祖神の信仰と融合して顕現した可能性もある。とあれば、もはやあれは人の呪いではなく神罰の領域。
天から降り注ぐ雨もどれだけの範囲に振っているか分からない。もしかすると、町ごと沈むなんてこともあるかもしれない。
「安心して。私がどうにかする。こういうことをどうにかするために、私は劇団員になったんだ」
少年の肩に手を置いて、ここにいるように、と再び念押しすると、彼女は飛び上がった。
忍者のように壁につかまり相手を睨む。壁に掴まれば、足を取られることもない。
「うわあ、こりゃとんでもない。肉眼でこんなにしっかり見える呪いもあるんだ」
近づいていくほど、雨は強くなる。彼女は片手に握ったままにしていた傘を見ながら、
「傘さしてどうにかなる雨じゃないだろうしなぁ」
と呟き、把手を握りしめる。
そして、向かった。
塀の上を走っていく。塀の上なら水は溜まらない。だが、ひたすらに雨は強くなっていく。
この圧倒的なまでの雰囲気。立っているだけで窒息してしまいそうな邪気が伝わってくる。
それでも彼女は走る。彼女は人ではなく、星に抱かれた者。この程度の邪は寄せ付けない。
「よし」
彼女はついに地面に降り立った。影は足を止めずに近づいてくる。
アインは待つ。足元が奪われながら、彼が目の前に来るのを、ずっと立って待ち続ける。
そして、ついに影が目の前に辿り着いたとき。
影は老人の姿をしていた。笠を載せ、杖を突き、ひたすら前に進み続ける人間の姿を形どり、今アインと相対した。
彼女はかがみこんで目線を合わせた。あまりにも黒く、そこにはなにもない。
しかし。
その光のシルエットは、暗黒を通り越した無にさえ、新しい灯火を与えるようだった。
ただ彼女は一言だけ言った。
「傘、どうぞ
」
そう言い、持っていた傘を差しだした。
影は足を止めた。
「黒い傘だし、似合うと思うんですよね」
「......」
「まだ、行くんですか?」
影は答えない。
「そうですか。なら、この傘も持っていってください。最近はゲリラ豪雨とか多くて大変ですし、携えておくのも便利だと思います」
そう言って、笑った。彼女の屈託のない笑顔だ。
雨は、いつの間にか止んでいた。陽は、もうすぐちょうど沈むところだった。
「いつでもお好きなときに寄ってください。もう少し進めば、休むところがあるかもしれません」
そして、影は消えてなくなった。雨が降った形跡などどこにもなく、水の一滴も残されていない。
アインは少年の元に戻った。
「降りれる?」
「おりれるよ」
少年は自力で屋根から降りてきた。
「それじゃ、一緒に返しに行こうか」
夜の山は危ない。二人は一緒に、山道を上った。
* * *
「これでよし」
少年が石棒を元の場所に戻したように、アインは持っていた傘を斜面に立て掛けた。
「これであの人たちも安心だね」
「お姉さん」
「何?」
「すごいね」
「でしょ」
無邪気に笑った。
「お姉さんの話すこととか、笑った顔とか、ほんものみたい」
「みたい?」
「うーん、どれもほんものすぎて、どれがほんものか分からないのかも」
「なるほどね。まあ、褒められてるか」
二人は灯りのない山道を下りる。
「お姉さんは、劇団員になるのぴったりかも」
「そうでしょ。我ながらぴったりだ」
「どうして劇団員になろうと思ったの?」
「......それに答えるのは、今の私には難しい」
静かに笑ったような気がした。
「昔の私に聞いてみないと、もう分からない」
さて。
彼女の気ままなお話はここでおしまい。彼女について今ここでこれ以上語るのは、とても難しい。
彼女の真実はいつ引き剥がされるのか。
彼女の目的は何なのか。
彼女の動機は、どこにあるのか。
それを知るためにはもう少し、昔の話をしなければ分からない。
だから、今はここまで。
語られるべきときは、きっと来る。