
神に愛された町、宇気比町。
遥か平安の世から恐れられた隔絶の町。
この町は江戸の時代から、華狂家によって治められていた。血筋、血統という象徴による支配だった。
血には力がある。すべての人間が受け継いできた恩恵と呪いは、血という時代の搭乗者に委ねられる。
生まれたからには逃れられない病。私の血族はその呪いを現代まで受け継いでいる。
そして今、襷を握っているのがこの私なのだ。
5番目の”患者”。神の寵愛を過度に受けた挙句、ただの人型となってしまった私に。
9年前。
「じゃーん!」
「とっても綺麗ね」
宇気比町の人々は、いつもと変わらない生活を続けている。
季節は春で、少しだけ浮ついているけれど。それでも彼らが普通に生きていることに変わりはない。川の桜も綺麗に咲く頃だ。
水と花びらの香りは町を上って、私たちの家までやってくる。これ以上ない、幸福の兆しだった。
「それじゃあ、そろそろ出発しようか」
母の後ろに続いて家を出た。町を囲む並木も、門までの長い石畳も、今日は暖色の香りだった。
門が開けられて、ようやく外に出る。
「ひろーい!」
それは、今思えば広いお庭だったけど。
その日私は、はじめて家を出た。それまではこの、広いようで狭い家で育てられてきたのだから。
「お友達、たくさんできるといいね」
「うん」
柔らかく微笑んだあと、母は私を前に出した。
私の家族は、私の門出を祝福してくれた。門出、といっても、私はただ家から一歩踏み出すだけのこと。でも、それは私にとって大きな大きな一歩だった。
華狂家に課せられた呪い、とりわけ私に載せられた呪いは、それくらい重大なものだった。
町を歩くのはとても楽しかった。
窓に切り取られた一枚の絵にしか見えていなかった景色に、自分が入り込んでいるような実感。
立ち並ぶ住宅街は確かにそこに築かれた材であり、敷かれた道は絵具ではなくて固いコンクリート。私ははじめて、知らない世界を実感していた。
太陽からはしっかりと温度を感じた。足元からはしっかり安定を感じた。
幼稚園までの道はとても長かった。それは、私がまだとても小さかったからかもしれないし、いちいちすべてに目を奪われていたからかもしれない。
本当に、きりがないほど不思議な世界。私の家の外には、こんな景色が広がっていたなんて。
私が生まれてから、私が家から出なかった理由。
それは今、私と肩を並べて歩いている、彼らの存在があったからだった。
彼らは誰にも見えない。私と、私の父という限られた存在だけ...華狂家の血を濃く持つ者だけが、彼らを視認することができた。
彼らの正体を誰も知らない。私も私の父親も、それが何であるかを考えなかったし、考えようとも思わなかった。月や太陽と同じくらい、彼らはそこにいるのが当たり前だった。
誰かが名前をつけたらしい。彼らは画霊という。
画霊の怪談はずっと昔から日本に伝わっている。それを生業にしていた人もいる。いわば、絵に対する降霊術だった。
しょせん、それは怪談。ただの人間には見ることも、彼らを描くことも出来ない。
私たちはそんなマヤカシを実現することが出来た。それが華狂家の血統だ。
画霊は、絵の主に従う。父の描いた絵は父に、私が描いた絵は私に追従する。
もちろん、どこまでだって。
「ここが...!」
幼稚園は、私の家に比べればずっと小さいけど、ずっとずっと狭いけど、それだけに賑やかだった。こんなに狭い場所に、こんなにたくさんの人間が集まっていること。それ自体が、私にとっては神秘的だった。
「おかあさん!」
「いってらっしゃい」
私が人と触れ合う。家族以外の人間と、はじめて言葉を交わす。
私の”トモダチ”が、みんなには見えないことは聞いていた。そしてトモダチも、ちゃんとその話を聞いていた。
今日、私の人生は始まる。
「こんにちは!」
* * *
私の趣味嗜好は、常人からそれほど外れたものではなかったようだった。
きっと私は、華狂の姓こそなければ、どこにでもいる普通の女の子だったんだろう。
幼稚園に通って、半年くらい。そんな性格のおかげで、友達はそれなりに出来た。失敗もたくさんあったけど、それは私にとって快い経験だった。
私の名前を呼ぶ友達がいる、それがとっても嬉しくて。
それで、今まで嫌いだった私の名前も、だんだん好きになってきた。
「はい、どうぞ」
私の絵は、人には面白く映ったらしい。よくクレヨンを渡されて、絵を仕立て上げることもあった。
それは、年にしては絵が上手かったからかもしれない。当然それは、私が絵を描いたことしかなかったからだ。息を吸うように、瞬きをするように、消化を進めるように、私は絵を描いていたのだから。
だからそのぶん、運動はちょっと苦手だった。
「────!」
よく、転んだ。
膝を何度擦りむいたか分からない。痛いけれど、それでよかった。
人並みに痛みを感じるほど、それでいいと思えた。
「大丈夫?」
転んだとき、何度だって手を差し伸べてくれる友人がいた。
それで、いい。
私は手を握られて立ち上がる。
そうだ、友達がいれば何度でも立ち上がれるから。
それでいいんだろう。
* * *
「それじゃあ、みなさんさようなら!」
しずしずと頭を下げる。
今日はなんだかおかしかった。私の日常と比べれば、そこまでの不思議じゃないのかもしれないけど、その不思議は”私”のことじゃなくって。
挨拶が終わってから、先生に伝えにいった。
「せんせい、■■ちゃんがいません」
「■■ちゃん?」
先生は私の顔を見て少し動揺してから、また笑顔を取り戻した。
そして、たしか返答は。
「■■ちゃんって、だれ?」
そうか、と思った。
私に手を差し伸べてくれたあの子は、いなくなってしまったんだ。
物質の世界から昇華したにとどまらず、彼女の存在はすっかり失われてしまった。
これは、いたずらだ。
先生との挨拶を済ませて、幼稚園の庭に向かった。空は夕陽で赤かった。
夕陽が沈むと、逃げられてしまうような気がして。赤く染まる視界が、視神経を伝って脳に届く。
それは、確かに。
私が外に出てから、はじめて抱いた怒りの感情だった。
なんとなくは知っていた。私の”トモダチ”に似ている存在が、野生に存在していることを。
しかし彼らは”主人”がいない。うろうろと、ただ己の欲望を満たすためだけに存在している。
画霊ではなく、ただの霊として。
「……」
黙々と歩いた。幼稚園の門から出たら、お母さんに見つかってしまう。だから私は、幼稚園の塀から出ていくことにした。物を壊してはいけない、それくらいの道徳はあった。だから、こっそりと這い上がった。
影が伸びていくにつれて、道は細く見えた。
逃がすものか。
そこにいるのだろう。
そんな言葉を繰り返しながら、街を闊歩した。
細い路の突き当たりに、私の友達がいた。
そしてそれに覆いかぶさるように、巨大な爪が彼女を捉えていた。
彼女は泣いているけど、声はこちらまで届かなかった。意識の絶するような慟哭が、全く聞こえない。代わりに、後ろの通りに流れていく車の音が、通過していく。
私は一歩、近づく。それと同時に、私の側に具していた”トモダチ”が動き出す。
さながら、天使の六枚羽のように。離弁花の花弁のように。
まずは一刺し。
巨体が身を翻して、壁に突き当たった。
私の”トモダチ”が何者なのかを示そう。
彼らは私の感情と共にやってくる。私の感情の顕れ。絵を介して現れる、私自身の現身でもある。
だからこうして私は、あれを解体することができる。どれだけ堅牢な骨格に身を包んでいたとしても、どれだけ遠く離れていたとしても、私の心が消却されない限り、私の現身は動くのをやめない。
だから、まずは、ではなかったかもしれない。特に二回目を考える間もなく、あれは体を穴だらけにされて、もう原型を保てなくなっていた。
そうやってしばらく、私は自分の眼があまりにも冷ややかになっていることに気づいた。彼女は泣き疲れたのか、それともパニックに陥ったのか、しばらく黙っていた。
私は最初、彼女の傍にいつづけようと思った。だけどそれより前に、私は自分の右腕を見た。
多少無理をしてしまったかもしれない。黒色に変色した自分の腕を見て、自分自身の限界を感じた。
けれどいいんだ。私の友達が助かったのなら、これでいい。
私は、その場にゆらゆらと倒れ込んだ。自分の体重がふわっと軽くなって、紙のように地べたに落ちた。
「──大丈夫?」
いつの間にか友達はすっかり気を取り直して、私を上から覗き込んでいた。私に手を伸ばしてくれていた。
彼女は笑っていた。人間の温かさだった。
もう陽は落ちたといっても過言ではない、建物の影は真っ暗だった。
だけど、それよりも暗いものが、私たちの上から─────
「危ない!」
私の叫び声が号令のように響いた。
全身の焼けるような感覚。彼らがやってくる。それは先ほどまでとは全く違う、明らかな殺意と緊急を以て迎撃する。
しかし間に合わなかった。黒色の爪が、覗き込む彼女と、私を、縦に貫いた。
ちょうど、巨大な串に穿たれたように。
あれはきっと相討つ覚悟で一撃を放った。
意識が引き裂かれていく。これは死んでいく感覚でも、眠っていく感覚でもない。スクラップ状の記憶がツギハギされていく。家の中、私の部屋、家族、友達、幼稚園の庭...。
その混濁を見守っている。私の視界を占めているのは、最後に私の顔を覗き込んだ、ついこの前一緒に誕生日を祝おうと約束していた気もする、えっと、たしか......もうすぐ4歳の少女が、目を大きく開けたまま死んでいる光景。綺麗すぎる円形の瞳を露わにして、もう感情のない、剥製のような顔面。
私は視線を動かせなかった。もう動かすだけの力がなかったのもそうだけど、それ以上に動かせない理由があった。
背中を貫かれただけのはずの彼女の死体に、どうしてか”手と足がない”のは。
視界の端にうつるそれを、はっきりと見てしまってはいけない。
それを見てしまえば──。
でも。
彼女が死んで、私は生きている。
その事実が全てだった。
私と彼女以外の存在は、人の目には見えない。
─ きっと私は、華狂の姓こそなければ、どこにでもいる普通の女の子だったんだろう。─
だけど、私は華狂の姓を受けてしまったからには、普通の女の子ではない。
華狂家の人間が外に出てはいけない理由。それはとても単純なことだった。
画霊の力は、人の世に召すには強すぎる。
人間など、その一端で殺してしまうくらいに。
このように。
ほんの些細な顛末で、誰かの命が奪われてしまうくらいに。
* * *
目を覚ました直後のことは、よく覚えていない。
そして、気を失った前のことも。
幼稚園の庭、差し伸べられる手と笑顔、そして、忘れてはいけないような誰か...。
その砕けた死体。
何も思い出せない私に、家族は何も話さなかった。私の周囲にとって、それはなかったことにされていた。
そんなはずはないのに。
私の目の前で、その子が死んだ事実はきっと変わらないのに。
私が殺した事実は、絶対に変わらないというのに。
私にとって、外の世界は広すぎたんだ。
広すぎる世界は危ない。それだけ遠くに飛び出していける。
私を外から押さえつけるものがない。
だから、私は自分の身を檻に入れるしかない。
いや、当時はただ「人に会うのが怖い」というだけの理由だった。
だけど、これは永遠に変わらない呪いなんだ。
だけどもちろん、私の物語はここでは終わらない。
贖罪は目覚めとして有るべきだ。私は必ず、外の世界に追放されなければいけない。
その契機は、とある作品だった。
部屋の片隅に隠れていた、小さなDVDを手に取る。また同じような、小さな画面のテレビに映してみた。
演劇だった。
それほど大きくはない舞台で、それほど多くはない役者が演技をしている。
そしてそこには、彼らを観る人がいた。今まで、一人で絵を創る人間だった私に訪れた、ちいさなきっかけ。
私にとって、絵までもが孤独だった。だけどここにはきっと、繋がりがある。
「私もあんなふうになれたら」
でも、今思えばどうして演劇だったのかは分からない。
私は新しい檻を探していたのか。
自分という存在を封じ込むことができる、新たな役柄を探していた。
それでいて私は解放されたがっていた。だから動機は贖罪ではなかった。むしろ、許しを請い縋っていた。
新しい出会いがあるかもしれない。既に5年近い月日が流れ、あのときの恐怖も薄れかかっていた。
だからこそ。
「駄目だ」
そう言ってくれる人がいた。
「お前は絵を描き続けるんだ」
「別にいいんじゃない? また、新しく始めてみても」
両親の意見は分かれていた。同じ画霊師の父は画家としての道を勧め、母は普通に生きる道を勧めた。
だけど、私にはそのどちらも選べない。
私は画家でもなければ、普通でもない。
私は、華狂家の.......。
「───!」
その日、家を飛び出した。
あてもなく、長い石畳を抜けて、門を突破した。あの日以来の外界だった。
陽の光は差すように熱く、人混みは滲みのように疎ら。
何か、あてもなく遠くへ。
とにかく私は、どこかへ向かわなければいけない気がした。
それが例え、この世界ではないとしても...。
「─────────」
私はそのとき、奇跡を見た。
滲みのような世界でも、一際目立つ色彩を見た。
その色に名前はなく、その彩に鮮やかさはない。
ただ、そこにあるその状態をそう呼ぶのである。それが、三原色の決まり。
私はそこに、暗色の奇跡を見た。
私は足を止めて、今ちょうど通り過ぎたところを振り返った。暗黒はゆっくりと移動している。
私は追いかけた。走って追いかけた。相手は歩いていてずっとゆっくりなはずなのに、全く追いつけなかった。
彼は路地を曲がった。それを走って追う。息が切れたとしても、あれを今諦めてはいけないと、何かがそう叫んでいた。
だけど、路地の奥には誰もいなかった。
路地には、私の息切れだけが響いていた。
「こんなところまでどうしましたか、お嬢さん」
真後ろの声に驚いて飛びのいた。
暗黒が立っていた。
黒いロングコート、黒い中折れ帽、でも唯一の白点は、顔につけている白骨鳥の仮面だった。
その長身は、私がよく知る夕焼けの影みたいに細くて。
だから私は、怖かった。
「やめて」
意識なく私は呟いた。なぜなら、私が恐怖するとは。
そこにいる相手の殺戮に、他ならないから。
今目の前にいる小さなキセキを、この手で消し去ってしまうかもしれない。
「殺されないで」
「分かった」
淡々とした返事が聞こえるか聞こえないか、そこでとうとう理性が崩壊した。
虹色の影が私から延びる。これはきっと、私の心象だ。だからあれはきっと、恐怖をかき消すまで終わらない。
嵐のような画霊の群れが、あの暗黒に立ち向かう。それは、たった一人を殺すには大きすぎる力だった。
それどころか、たった一つの世界には重すぎる幻想だった。
それだから、この嵐が収まったとき、そして彼の直立が見えたとき。
「え──」
違うんだ。あれは生き残ったんじゃない。
あれは死んでいるんだ。
虹色の嵐は、誰一人として彼に近づけなかった。あの男の周りに踏み入ったとき、それはきっと彼らが死んでしまうときなのだ。
じゃあ男は死神なのか。そんなはずはない、彼は人だ。
彼は何もしなかった。反撃すら見せなかった。私の”トモダチ”に手も触れず、彼らを退けてしまった。今みんながいないのは...。
「あなたが、死んでいないから」
私は童心ながら、人を傷つけることを拒んでいた。それが第一の、私が心を閉ざした理由だった。
でも、彼は違った。私の心を受けてもなお、そこに立っていた。
「君がどれだけの力を解放してもかまわない。ただ」
彼は私の腕を指差した。また、黒くなっている。
「力は無限ではない。いくら血統という源流を辿れるといえど、出力機器には限度があるだろう」
「どうして、私のことを」
「私が君の友人だからだ」
恐怖はすっかりなくなっていた。なんとなく、そこにある洞に安心していた。
私という存在によってでも割れない、大きな大きな虚。
それはこの世界にそうたくさんはない、かけがえのないものだった。
私は、彼を知らない。でも彼は私を知っている。
それを友人と呼ぶかは分からないけど、そうであってほしいと願っている。
なぜなら彼ははじめて、私と相対している人だからだ。
「すいません、名前は」
「名乗るのはもう少し後にしよう。私は今、取り急ぎ君の夢を叶えるためにやってきた”最後の魔法使い”なのだから」
私と彼の出会い。
そして、のちに私を変える《黄金劇場》の出会い。
第二の生を受けた私は、こうしてここまで来たわけでした。
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ええ、ひとまず話はこの辺りで。
大丈夫、まだまだ時間はありますから。
もう少ししたら、次のお話を始めましょう。